ブログと政治

2010年4月1日 日常
九州のどこかの市長さんが、市議会と対立して、マスコミが
こぞって続報を流している様を見ていると、先代の長野県知事
であった、某知事とダブって見える。

マスコミなんてものは、地元の政治的事情とか、対立の構図
其の背景等と言ったものは報道しない。せいぜい、報道する
内容といえば、風変わりな市長の独裁と、その独裁に反発する
議会が、市政を混乱させ(市長に対して)其の責任を追及する
といった具合。

だから、市長の政治理念とか、目指していることなんて
(地元の支援者を除き)第三者には伝わりにくい。
対立の構図がわからず、外部からの擁護のかぜ、支持の風が
どちらに吹くかにより市政の混乱が収まるか、それとも
ますます収拾が付かなくなるのか、其の差は大きいと思う。

普通に、無難に、市政の運営がされていれば、誰の関心も
引くことなく、平和な政治が続く。

でも・・・。


地域ごとに、大なり小なりの問題、対立があると思えば
何らかの原因、意図があって、問題が表面化せずに、誰も
それを知っているくせに、口出さず、触れずにいるかも
しれない。

問題提起をする勇気と、問題の解決する政治力は、似ている
ように思えて、実は、どうしたら解決できるのかと考える
政治力は、並大抵でないと思う。

問題提起などせず、出来れば、触れずにおき、見てみぬ振り
して、他の誰かに任せる。

でも、一旦、封印を解いてしまったら、解決策を模索している
あいだに、解いたことで、更なる対立、深刻な影響が出てしま
ったら、誰が責任を取れるのかと考えないといけない。

そして、市政の混乱は、支持派と不支持派との対立も誘発する。

何が正しくて、正しくないのか?誰が公正に判断できるのか?

たとえ、その問題提起が「市民の本意」であっても、議会との
対立は結局、問題解決のための歩みが止まることになってしまう。

名古屋もそう、鹿児島もそう、市長の政治理念、政治手法が
正しくても、急進的な改革案を提示し、議会と対立する。

互いに譲れず、何かを守ろうとするから、互いに譲れない。

でもね、そんな対立、市民からすれば・・・。ウンザリする。

旧来の馴れ合い、持たれ合いの政治手法にウンザリして
革新的な政治を求めて、何かを変えてくれるだろうと期待して
その期待が裏切られたと思ったとき、もういいやって思って
しまうと、折角の改革すべきときに、何も変えられず、再び
旧来の政治手法のほうが、摩擦が無く、衝突も起こらず
無難なのかなと。

穏便に進められず、議会工作もできず、根回しも出来ず・・

そして、改革の成果を求めるから、強権的にことを進めようと
考えても、旧来からの政治が正しい、進めやすいと思っている
議会と対立を生む。

いいじゃないのさ、改革の歩みが遅くても。急いては事を仕損じる。
と言われるように、あせって、改革とやらを推し進めても、対立を
生むだけ。

急進的に改革を推し進めようとする政治家は、腰を据えて
政治をすることが、苦手?

本当の意味で改革を進めるのであれば、まずは世論を見方にし
議会に仲間を作り・・・。派手なことをして目立つことばかり
考えているから、急進的な改革は挫折し頓挫する。

見方を作らないで、改革なんて・・・。無理に決まっているのに。


ではでは。

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